2012/08/21

「あのとき」

帰路を急ぐ船は、雨雲の淵をなぞるように走っていた

船尾の方で、水揚げされた鮪のごとく眠っていたところを
降りかかる波しぶきによって目を覚ました
体にまとわりつく潮風が少し冷たい

起きあがってみると、西の空に夕陽が、東の空に虹があった
それらは、低く垂れこめた積乱雲と群青の海との間で
それぞれの方向を目指していた

雲から流れ落ちるスコールをフィルターに、
陽は喩えようのない滑らかな光を放ち、
近くの雲を真朱色に
遠くの雲を金色に染め始めていた

水平線あたりに佇む雲の群れを眺めながら、
黄金の毛並みをもった空想上の動物たちが
物憂げに自らの寝床にかえってゆく様を想起する
昔何かの小説で読んだ気がするのだけど、あれは何だったっけ


ふと焦点を外すと、水彩の虹を真横に流したような配色の空

三日月がひかえめに空を切り取り
寡黙な雲がゆっくりと夜を追いかける

しだいにあたりが暗くなり始め、空と海の境界が消えるまでの間
しばらくそれを眺めていた

一瞬、その場にあるあらゆるもの
― 月も雲も、船縁を滴る水滴も、間隔にひそむ余白でさえも ―
それらすべてが在るべき位置に在り、
ひとつの作品になったかのような感覚を覚える

「ああ、なんで今カメラを持っていないのだろう」
と少し後悔したが、いつかまた思い出すであろう”あのとき”を想えば
それはそれでよかったのかもしれない。



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